日本100名城・山形城
山形城は日本で5番目に大きく、東北一の面積を誇る。現在の市街地は三の丸にあたる。その大きさに圧倒された。今の霞が城公園は本丸と二の丸で、その回りは内堀で、三の丸の外側にも外堀がめぐらされいたようだ。
現在の芋煮会で全国的に有名になった、馬見ヶ崎川は、当時の川は市街地(山形駅)近くを流れていたのを今の位置に移したようだ。当時の土木工事のスキルにも圧倒された。
以下はウィキペディアから一部転載
山形城は、山形市霞城町にあった別名は霞ヶ城(かすみがじょう)と呼ばれる。国の史跡に指定され、日本100名城に選定されている。
おおよその城郭構造の基礎は、最上義光の時代につくられ、鳥居忠政の時代に現在の形に整えられたもの。江戸時代には山形藩の政庁が置かれた。現在は、武家屋敷群のあった三の丸が市街地化しているが、本丸、二の丸跡が霞城公園として残されている。
建造物では、大手南門が、市内の万松寺山門として移築され現存する。
山形城は、本丸(2.83ヘクタール)・二ノ丸(27.99ヘクタール)・三ノ丸(234.86ヘクタール)を三重の堀と土塁で囲まれた輪郭式の平城で、東北では最大です。外郭である三ノ丸は、現存する日本最大の天守がある姫路城の外郭(約233ヘクタール)や内曲輪(約23ヘクタール)よりもそれぞれ広くなっております。
石垣には馬見ヶ崎川で採掘された玉石(安山岩)を割った石材を用い、割り面を前面に利用しています。本丸は御殿のみで天守はありませんでしたが、二ノ丸には江戸時代前期まで三階櫓がありました。今も残る二ノ丸の堀や土塁・石垣は、最上氏改易後の元和8年(1622)に城主となった鳥居忠政やその後の保科正之により改修されたと伝えられています。
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