世界遺産・三内丸山遺跡
北海道南部で6遺跡、青森県で6遺跡、秋田県2遺跡と岩手県北部に1遺跡で合計17の縄文遺跡が存在する。なぜ寒冷地に縄文遺跡が数多く存在するのかが謎であった。その謎を少しでも解く為に世界文化遺産に指定された遺跡群のうち、青森市にある、最もも大きな特別史跡『三内丸山遺跡』を訪れた。入場は当日の1番目であった。(入場券Noは00001)
紀元前7000年頃から地球は温暖化し始め、現在よりも平均気温で3℃程高かった。
三内丸山遺跡が繁栄した紀元前3000年~2000年には、現在よりも地球の平均気温が2℃高かった。当時の日本列島の東日本ではブナやクリなどの落葉広葉樹林が多く、動物もシカやイノシシの中型動物が増えてきた。
この縄文時代は採集、漁労、狩猟を生業に定住が営まれていた。稲作農耕が始まる弥生時代の前に位置づけられる。この地に縄文遺跡が多いのは、比較的温暖(この時代は)で、広葉樹が生い茂り、魚や野生動物も豊富にあったからだと推定される。
地球温暖化が叫ばれている昨今、地球は温暖だった縄文時代に戻っているだけなのかもしれない。ただ二酸化炭素の上昇と一致している事は事実だ。
しかし、二酸化炭素が地球を温暖化させているという仮説は、必ずしも正しくないかもしれない。現在は冬には雪が多量に積もる青森や北海道では、当時は温暖化で縄文遺跡が多い事の謎が解けたとも言える。地球温暖化の二酸化炭素説の仮設を、地球の長い歴史から解明する必要性を感じる。
しかし、二酸化炭素が地球を温暖化させているという仮説は、必ずしも正しくないかもしれない。現在は冬には雪が多量に積もる青森や北海道では、当時は温暖化で縄文遺跡が多い事の謎が解けたとも言える。地球温暖化の二酸化炭素説の仮設を、地球の長い歴史から解明する必要性を感じる。
大川小学校の悲劇
東日本大震災の津波によって、宮城県石巻市立大川小学校の児童74名、教職員10名が犠牲となった。いまだに4名の児童が行方不明になっている。大川小学校を襲った津波は8.6m。裏山に逃げれば命は間違いなく助かった。校庭へ避難してから実際に避難行動までは47分もあった。避難開始した時には、既に津波はすぐ近くの富士川が越水。
その4分後に川に向かって避難してしまった。誰がどのような判断をしたのか?避難行動開始が、あまりにも遅すぎたのではないか?すぐ裏山には校舎よりも若干高いコンクリートで固められた平らな場所(津波の高さからギリギリ?但し孤立する可能性はあったが、命は助かったず?)があった。当時いた児童78名と教職員10名が一時退避する場所としての広さは十分だったはず。
ここに避難するには5分で可能だ。越水してから逃げても命は救われたはずだ。更に高い杉林に逃げれなかったのか?細い道はあったのに・・・小学1、2年生にはきつそうな山道でも登れない事は無かったはず。
その4分後に川に向かって避難してしまった。誰がどのような判断をしたのか?避難行動開始が、あまりにも遅すぎたのではないか?すぐ裏山には校舎よりも若干高いコンクリートで固められた平らな場所(津波の高さからギリギリ?但し孤立する可能性はあったが、命は助かったず?)があった。当時いた児童78名と教職員10名が一時退避する場所としての広さは十分だったはず。
ここに避難するには5分で可能だ。越水してから逃げても命は救われたはずだ。更に高い杉林に逃げれなかったのか?細い道はあったのに・・・小学1、2年生にはきつそうな山道でも登れない事は無かったはず。
現場は富士川と北上川が並行して流れている。北上川が越水したのは富士川の越水の5分後、避難開始してから1分後。どうみても越水している富士川や北上川に向かって避難する事はあり得ない。三角地点に避難しても(せいぜい3m程度の高さ?)津波の被害は避けられなかったはず・・・
北上川と並行している特殊な地形である事を考慮すれば、避難対策が十分されていたようには見えませんでした。教育委員会や学校の責任は重大だろうとの感触を得た。
尊い84名の命を救う手立てはあったはず。さぞかし両親の無念さは計り知れないものだろう。非常に残念な思いで悔やまれる。(合掌!)
【パンフレットより】